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2010年8月1日日曜日

ブログを引越し

え~っと、このブログサービス、使いづらいのと、画像や動画を投稿しようとすると、思ったように表示できなかったりして、何度も「イ~~!!!!」となったり、何人かからコメントが投稿できないとの情報もあるので、思い切って引越しします。

新しいブログのURLはこちら ↓

http://tumbleweed4867.blog103.fc2.com/

よろしこです。

2010年7月28日水曜日

スクーター



なんとなくYouTubeサーフィンをしていたら、こんな↑懐かしいTVCMを見つけて、昔の事を思い出したりしました。

僕が始めてスクーターを買ったのは、高校2年の頃。
親が住む沖縄の離島から離れ、本島で兄姉と3人で、2部屋しかないとても小さなアパートに住み始めて1年ちょっと経ってからの事でした。
僕は工業高校に通っていたのですが、学校に行くまでにバスを乗り継いで約2時間という道のり。
しかも、交通機関の発達していない沖縄なので、交通渋滞に巻き込まれると、さらに伸びて3時間くらいはかかったり。

そんな中、同級生達はどんどん免許証を取り、その後はバイクを買って通学するようになっていった。
ちなみに、当時はまだ原付に対するヘルメットの義務はなかった時代で、高校生達は当時流行っていた、ムササビスタイルのスウェットを着て、原付に乗って両腕を風でバサバサいいながら市内を走るのがカッコいいと思われていた時代。
あと、なぜかヤマハの車体が軽いパッソーラに、同じくヤマハだけど馬力の強いJOGのエンジンを載せる、パッジョグと言う、亜種のハイブリッド車が人気だったのは沖縄だけだろうか?

高校2年になって、やっと回りの同級生の方言が理解できて、自分でも少し話せるようになった頃、現在は無い某那覇市内のショッピングセンターの地下にある回転寿司屋でアルバイトする事にした。
本当は、マックとかロッテリアとか、A&Wとか、お洒落な所でバイトしたかったんだけど、貧乏だったのでそんなハイソな所にも言った事が無く、なにしろ自分の日本語が怪しかったので、絶対雇ってもらえないと思って断念。

でも、まず履歴書なんて書いたこと無かったので、「志望の動機」欄に「離島出身なので、自分で稼がないといけないのです。」と書いたら、すぐに雇ってもらえた。
後で分かった事だけど、そこのスタッフには、たくさん離島出身者がいた、そして皆やさしかった。

僕の仕事は、巨大な釜でご飯を炊く事と、それを巨大なおひつとシャモジで寿司酢と混ぜ合わせ、酢飯を作る事。
お客さんの要望に合わせたうどん、または蕎麦を作る事。
そのうどん、蕎麦の汁を作ること。
天麩羅を作る事。
帰り際には、寿司酢の仕込みと、たっぷりとバケツに溜まった生ごみの処理。

など、シンプルだったけど、ひっきりなしにお客さんが来るので、物凄く忙しかった。
「大丈夫~?」などと声をかけてくれた、当時一緒に働いていた僕にとても優しかった年上のお姉さん(といっても、一歳か二歳くらい上)の顔は、今でも覚えている。

このバイトにはバスで通っていて、アパートに帰るのは大抵夜中の11時頃だったのですが、乗車中に「何かこのバス、いつも臭いなぁ~」、と思っていたら、自分の臭いだったのに気づいた。
特に、仕事中に履いていた長靴を脱いだ後の足の臭さといったら・・・
一回だけ、隣に座ったお兄ちゃんが、何も言わずにスーっと席を替わった事があったけど、あれはたぶん、僕の臭いに我慢できなかったんだろう。
だから、バスの中ではいつも身を小さくして乗っていた。

そんなこんなで、その回転寿司で4ヶ月ほど働いた。
時給はたしか、300円くらいだったと思う。(当時、マックで360円で、それが一番高かった。)
働き始めて小金ができたので、昼休みに校内にある売店でいつも買う、一番安い150円のA型弁当(たしか小さい焼きソバのようなもの)やB型弁当(チャーハンだったかな?)だけでなく、新型弁当と呼ばれる、ほんのちょっとだけデラックスな、ゴハン+少しのおかず付きの弁当が食べられるようになった。
あと、TVCMでずっと気になっていた、エスキモー社の何層にも重なった超高級アイス(といっても、当時で500円くらいです)、ビエネッタを給料日に思い切って買って、姉と二人で分け合って食べたのも、良い思い出。

今振り返ると、凄い貧乏な生活だったんだなー、とか思うけど、当時はまったくそんな事思わなかった。
だって、周りの同級生達もみんなそんな感じだったから、それが普通みたいな。

そのうち、なんとなーく仲の良い同級生が、「僕のスクーター、ちょっと前輪が歪んでるけど、買わないけ?3万円でいいよ!」と話を持ちかけてきたので、即決でコツコツ貯めたバイト代で支払った。
それで、僕の憧れの初代スクーターは、HONDAのLEADになった。
色がシルバーで少し気に入らなかったけど、初めて自分が稼いだお金で買ったバイクなので、大事に大事に乗った。

乗ってすぐ、原チャリってすげー、って思った。
それまでバスでしか移動できなかったから行動範囲が狭かったけど、バイクがあれば何処へでも行きたい時に、すぐに行けちゃうのねん。
それに味を占めて、暇な時は用も無いのに、同じ島出身の同級生が住むアパートに遊びに行ったりしてた。
もしかしたら、嫌がられていたかもしれない。

そんな僕のLEAD君ですが、生まれ島の同窓会で某公園で集まった際、僕の不注意で転倒事故を起こし、前輪の歪みがさらにひどくなり、運転中は前輪が常に左側に引っ張られる形になり、いつも力を込めて反対側にハンドルを引っ張りながら運転するという、今なら絶対できない状況に陥ったわけです。

それを聞きつけた、僕の初恋の高校の同級生Y君、「ねえ君、夏休み中は島に帰るって言ってたよね?じゃあ、その間、そのバイク僕に貸してくんない?その代わり、うちの兄貴がエンジニアだから、その前輪の歪み直してあげるから!」みたいな事を話しかけてきたので、即OK!!
これで彼と近づけるんなら、夏休みの間に貸すくらいなんともないわー、と思ったんだけど。

いざ、夏休みが終わって秋学期が始まっても、「前輪の歪み、まだ直している途中だから・・・」とか言って、なかなか返してくんない。
でも、それは嘘だという事がわかった。
ある日学校帰りに歩いて帰宅していたら、川向かいの道を僕のバイクにそいつと友達が二人乗りしていたのを見つけたので、大声で叫んだら、そいつに満面の笑みで軽~く手を振られたので、そこで頭にきた。

翌日、学校に行ってさっそく彼の所に行き激しく文句を言ったら、まさか僕がこんな風に怒る人だとは思わなかったらしく少しビックリしていたけれど、すぐに謝って、バイクを返してくれる事を約束した。
でも、そいつの兄が前輪を直すのにかかった部品代を、2千円支払わなければいけなかったのは、少し釈然としなかったけど。

でも、そのせいでなのかしらないけれど、彼との距離はその後急に縮んで、当時一人暮らしだった僕のアパートに遊びに来てくれたり、買ったばかりの彼の車で埠頭までドライブに行って、急逆スピンとか見せてくれたりしてた。
あの時は、物凄く幸せだったなぁ・・・
その想い出は、たとえ本人が覚えていなくても、僕にとってはプライスレス。

まあ、そんな感じで無事に帰ってきたLEAD君は快調で、しばらく僕の足になって活躍してくれたけれど、ある日突然、止めてあったアパートの前から盗まれた!!
超ボーゼンとなったけど、警察署に行って報告。
結局見つからなかった。

その後は、またバイクを買うためにバス&徒歩による、居酒屋でのアルバイトの日々。
バイト帰りは、夜中1時とか2時頃に、徒歩で一時間くらいかけて家に帰ったりしてた。
数ヵ月後に購入したのは、中古のYAMAHAのJOGか、たぶんTRY。
このへんはよく覚えてないんだけど、ファンキーなフォルムと斬新な青のカラーで、とても気に入っていたっけ。
その原チャリは、僕が沖縄を離れるまで僕の足になってくれて、とっても楽しい時間を過ごさせてくれました。

2010年7月7日水曜日

帰路3日目&ゲートウェイ・アーチ

帰路2日目に、そんなに遠くまで行かなかったのには理由があります。
それは、これまで何回かミズーリ州を通り過ぎる度に横目で眺めていた、セントルイス市にあるゲートウェイ・アーチに登りたかったから。
見るたびに、「うわ、なんか迫力あるなぁー、できるなら中に入りたい・・・」と思っていたので、この機会にとばかりに、セントルイス市のちょっと手前で宿をとった訳です。

「明日はとうとうあのタワーに登れるんだ」と思うと、遠足の前日の小学生のようにウキウキ気分で なかなか寝付けなかったのに、当日は早めに起床。
東海岸を襲った熱波の余波か、朝からムワっとくる暑さにまいりながらも、いざセントルイス市へ!

テキトーにフリーウェイを降り、タワー目指して走って近くの駐車場に車を止めて、公園内をテクテク歩いていくと、着きましたよ、アーチの根元へ!!
でも、あ、あれ?何だかコレで自立しているのが不思議なくらい、思っていたより華奢で頼りないような・・・?

さっそく、地下にある施設に入ろうとすると、そこは長蛇の列。
どうも、中に入るのに空港並みのセキュリティー検査があるようです。
炎天下の中待つこと約15分、やっと中に入ると意外とひろびろー。
施設内には、西部開拓時代の博物館や、歴史物の映画を見せてくれるシアターが2つあり、たくさんの人で賑わっていました。

無料の博物館をサラーっと見渡した後は、いよいよタワーの頂上へ登るトラムへ。
受付で$10を支払い自分の番を待ってたのですが、このトラム、実は小さな5人乗りのカプセルのようなものが8個連結されていて、ガシャコンガシャコンと上に引き上げていくタイプのもの。
で、これがまず、狭いのなんのって。
椅子なんてお好み焼き程度の大きさしかなくて、しかも球体なので上半身をかがめないと頭がぶつかる。
これ、身体が大きなアメリカ人にとって、拷問のようなもんじゃ?と思った次第です。

んで、5人乗りなので、一人の僕は4人家族のいるカプセルに振り分けられたのですが、まぁー、それの気まずい事、気まずい事。
せっかく家族水入らずで・・・、と楽しみにしてた所に、謎の東洋人のオッサンが現れたものだから、超ガッカリした様子がわかって、こっちもすんませーん、って感じ。
しかも最近加齢臭が気になる年頃なので、本当に身を小さくしてなるべく存在感消すようにしてました。

頂上までは約4分間かかるのですが、この間カプセルの小さな窓から見えるのは、外の景色では無く、内部の非常階段だけという、これ、意味あんの?みたいな・・・
頂上に着いたら着いたで、そこには幅約2メートル、長さ約15メートルあるかないかの太鼓橋のような場所に、大勢の人がひしめきあって、小さな窓から写真を撮っているという風景が。




ま、まさかコレだけ・・・?
ていうか、小さな窓から見える風景は、東京の高層ビルから見るのと大差無いし、あたしゃコレのために駐車場代$6と、チケット大$10を払ったのか・・・、と思うと悔しくて、そこでドンドンとジャンプして床を揺らしたくなったけど、強風のせいかすでに微妙に揺れていて、高所恐怖症の僕は3分も待たずにすぐに帰りのトラムに乗り込みました。

超ガッカリ・・・

地下施設に入るのを待っている間、中から出てきた人々の顔がドンヨリしてたのは、このせいだったのか・・・
ハッキリ言ってこのタワー、中に入る価値ありませんぞ。
外から眺めるだけで十分。

結局、この日はその後約654km走って、途中でフリーウェイが閉鎖されて訳わかんない道をグルグル廻って遅くなったりして、夜中の10時頃にやっとの事で自宅に到着。

ドロドロに疲れて、着いた頃には眼の下にドス黒いクマができてましたよ。

2010年7月6日火曜日

帰路2日目

2日目は、途中でスタバが見つからずコーヒー無しで走っていたら、急に眠気が襲ってきたのでREST AREAで仮眠を取ったり、フリーウェイ沿いにあるアンティークショップに立ち寄るなどしたので、走行距離は約585kmと少なめ。
ミズーリ州のWarrentonという小さな町のモーテルに宿をとりました。

このモーテル、インド人が経営しており宿泊料金はケーブルTV、無料Wi-Fiサービスが付いているのに、通常のモーテルの約1/2のお値段で$32と激安。
チェックイン後、昔ながらのタグ付き鍵をもらい、いったいどんな部屋だろうと恐る恐るドアを開けると同時に、ムワッ~っとした安っぽい芳香剤の臭いが押し寄せて来た。
でも、グルっと見回すと以外に清潔で、しかも電子レンジと冷蔵庫があって広い。
ただ、ゲスト用の案内表やTVのチャンネル表、コーヒーや石鹸、シャンプーなど無駄なものは一切置いていない。
なるほど、これが安さの秘密なのね。

一息ついた後、近くには何も無い所なので車でビールを買いに行くため部屋を出ようとしたら、鍵、かからないんですけどぉ~?
よくよく見ると、ドアの柱にある鍵がひっかる穴部分(っていうの?なんか表現の仕方が良くわからない)に、ティッシュが詰め込んである。
「うわ~、どうしよう。鍵かからないなんてシャレになんないよねー。部屋変えてもらおうかしら?」としばらく悩んだけど、「そうだ、最初に鍵をかけた状態でドアを閉めれば、ロックされるんじゃね?」と、ハタとひらめいた。

思ったとおり、内側のノブに付いているつまみをクルっと回し、力を込めてドアを閉めたら、ちゃんとロックされました。
ちなみに僕の泊まった部屋、トイレも少し壊れているらしく、常にチョロチョロチョロチョロと、水が流れっぱなし。

日本だったら、お客様のためにすぐに修理するんだろうけれど、長年アメリカに住んでいると、こういう事平気になっちゃった。
たぶん、直すのが面倒くさいんだよね、きっと。

このモーテル、こんなに激安なのにインドア・プールとかあって、家族連れがキャッキャいいながら遊んでたんだけど、その水、いったいいつからの・・・?と思うと、怖くて入れませんでした。

2010年7月5日月曜日

帰路1日目

5日間楽しく過ごしたコロラドとも、今日でお別れ。
来た時とは真逆に、ロッキー山脈を背にして東に向かいます。
バックミラーに写る、次第に小さくなっていく山を見ながら、「待っていておくれ、僕のロッキーちゃん。いつか帰ってくるからね」と、気持ち悪くつぶやく自分。
帰り道は東へ向かうので、朝以外は運転中も直射日光が当たらず(左ハンドルなので)、だいぶ楽。

ところで、今年で17歳の僕の愛車、赤いカローラちゃんは70マイル(112km)以上出すと、車体が軽いせいかガタガタいいだします。
んで、いつものようにギリギリの速度で走っていたら、ピューンと追い越していった軽トラックが。
でも、その荷台を見てびっくり。
なんとそこには、中型犬が右へ行ったり左へ行ったりと、落ち着かない様子でウロチョロウロチョロ。
その軽トラ、軽く見積もっても130kmは出していたので、「これ、落ちたらヤヴァイんじゃぁ・・・」と、気になってしょうがなかったです。

コロラドからカンザスに入ってすぐに小さな陸橋があり、実はそこはタイムゾーンが切り替わる地点で、「ここをすぎると、セントラルタイムゾーンですよーと」いう標識があるのですが、運転しながら携帯で時間をチェックしたら、カチャっと切り替わった!
すげー、一体どんなデムパを流しているのだろう?と、感動したり。

帰り道というのは結構余裕があるもので、本日の走行距離はたったの約650km。
カンザス州の小さなSalinaという街のモーテルに宿泊しました。

チェックインを済ませ、カードキーを受け取り、車から荷物を降ろしてモーテルの中に入ろうと裏口でもある駐車場側のドアを開けようと鍵を差し込むも反応無し。
「ああ、壊れているのね」と思って、グルっと廻って鍵のない正面玄関から入った訳ですが、実は僕の後にも子供3人連れの白人の家族が歩いていおり、僕が裏口から入るのを諦めた直後に、そのドアを開けようとしてるのはわかっていた。

んで、2階の自分部屋に入ろうと階段の所に行ったら、そこがその駐車場からの裏口ドアの近くで、僕の後に歩いていた家族が、外でなんだか「は、入れないよー」みたいな感じでもめている。
ていうか、普通のモーテルなら正面玄関があるのくらい、誰でも知ってるはずだけど?と思いながらも、僕が内側から開けてあげたのですが・・・

あたし荷物たくさん持ってるのに、わざわざ歩いてそのドアを開けてあげたのにもかかわらず、「サンキュー」の一言も無いって、どういう事なのさ?
なんかもう、「開けてもらって当然!てか、あんた遅いのよねー!」みたいな顔で、すれちがいざま睨まれたわ。
それも、ブスっとして不機嫌そうな不細工なデヴのティーンエイジャーの女の子に。
肝心の親も、自分達のおしゃべりに夢中だったみたいだし。

もしかしてあたしの事、不法移民のそのモーテルの従業員だと思ったのかもしれないけれど、それでも普通サンキューくらい言うわよねー?

まあ、ほんの数十メートル歩けば正面玄関がある事すらわからない、もしくは誰かがこのドアを開けてくるまで待つつもりだった親に育てられたら、そんなかわいげのない子供が育つのね、ああ、かわいそうに、と思うしか、このモヤモヤ感のはけ口を見つけられない僕なのでした。

2010年6月29日火曜日

GO WEST 2日目

本日の走行距離は約810kmでしたが、まだカンザス州にいます。
せめて今日中にはカンザスを抜けてコロラド州に入りたかったのですが、あと一歩、あと十数マイルという所で力尽きてしまい、今はGoodlandという小さな町のモーテルに泊まっています。
グリコとか3粒くらいあれば、頑張れたかも。

それにしても、自宅からここまで約1,730km走った訳ですが、今までひとつもトンネル無し。
どんだけ平たいんだよ、つーか、土地広くて平たいって農業とか酪農に最適じゃん、とか思った訳です。
中には、僕の生まれ島がスッポリ収まってしまうんじゃないか、ていうか絶対収まるよね、コレみたいな巨大な畑とかがドーンと目の前に広がっているのを見ると、なんでこの国が消費大国になっているのかなんとなくわかる気になったりも。

今日は物凄く疲れているので、グッスリ眠れそうです。

目的地のColorado Springsまであと200マイルくらいなので、明日はゆっくり出発する予定。

2010年6月28日月曜日

GO WEST!

先日、家の目の前で交通事故があった事を書きましたが、昨日の朝も同じ場所で衝突事故がありました。
なんだこの交差点、呪われているのか?
ちゃんと信号機あるんだけど。

ところで、本日コロラドに住む友人達に2年ぶりに会いにいくため、オハイオを発ちました。
今回は、初めての長旅一人旅。
愛車の93年型赤いカローラちゃん、こんな長い距離大丈夫かしら?と心配でしたが、今日一日で約920km走行しても快調々。
もうこの車で何度も大陸横断したりして酷使してるんだけど、けなげだなー。
今年はリコール問題とか色々あったけど、やっぱ、なんだかんだ言っても世界のTOYOTAの車は品質がいいなぁ。

ていうか、あたし、このリコール問題はアメリカ政府の陰謀だと思っています。
あまりにも日本車ばっかりが売れるから、信用を落としてやろうとか。
てか、問題のあった部品って、アメリカの会社が設計製作したんじゃん(アメリカ政府は日本の自動車会社に対し、30~50%の部品をアメリカ国内産にしないと、たとえ国内で製造しても輸入車とみなし、高い関税をかけると脅した結果。ソースはダーリンJなので、この数字は正確じゃないかも。本当は全部日本製の部品で作りたかったはずなのにね。きゃはっ。)

大体、普段からインチとか、ガロンとか、オンスとか、ヤードとか、マイルとか、華氏とか訳わかんないシステム使ってるから、こういう事が起きるのよ!
あたしなんて、9年近くも住んでるのに、複雑すぎていまだに計算できないもの。
なんで長さを測るのに、1/2インチとか、 1/4インチとか、 1/8インチとか、 1/16インチとか分数の計算をしなきゃいけないのか、意味わかんない。
メートル法だったら、ただ足して引くだけなのにねー!!

それはさておき、この車が引退したら、次は絶対プリウスを買ってもらうんだ(すんません、無職なので自分では買えません)。
でもこのカローラちゃん、なかなか壊れそうにないけど。

今日はI-70号線をひたすら西へ、オハイオ州→インディアナ州→イリノイ州と通過して、今現在ミズーリ州の西にあるCONCORDIAという小さな町のモーテルに宿泊決定。
今、自分にお疲れ様と、ビールを飲みながらこれを書いています。
明日はいよいよカンザス州に突入します。
カンザス州、横にビヨーンと長いので、走れども走れども「まだカンザスなのーー!??」と、ハンドルに頭を打ち付けたくなるくらいゲンナリするはず。
明日一日で抜け切れればいいのですが・・・

コロラドの皆さん、明日、旅の途中で連絡しますです。

2010年6月23日水曜日

感謝の気持ちはピザ2スライス?

このクソ蒸し暑い中、午後の仕事を休んで同僚の引越しを手伝ったダーリンJ。
じゃあ、たぶん今日は夕ご飯は作らなくていいわね、と思ってたら、午後5時過ぎに「疲れたー。お腹すいたー。」と帰ってきた。

「ええ!?何かご馳走とかなかったの?」と聞くと、「ああ、ピザが出たから2スライスくらい食べたけど・・・」と言う。
あわてて、すぐにできる焼きウドンを作ってあげたけど、アメリカ人の労働に対する感謝って、こんなものなの?
日本だと、出前の寿司とか、何かご馳走が出るよねー?

それともこの後、感謝のカードとか、プリペイド・カードが届くのかしら?

正直、そんなんいらないから彼に何か食わしておいてくれたら、こっちが楽できたのに、と思った僕は鬼嫁でしょうか?

2010年6月21日月曜日

昨夜の夢

昨夜はとてつもなく変な夢を2回も見ました。

最初の夢は、何故か僕はサイボーグになっていて、自爆装置が作動。
カチカチと装置が作動し始め、「これが最後か」とあきらめた僕は、ベッドに横たわった。
ふと横を見ると、ダーリンJが何も知らずにスヤスヤと眠っている。
これから起こしてももう手遅れだし、「死なばもろとも!」と、そっとしておいた。
こんな事に巻き込んでしまい、申し訳ないと思った瞬間、自爆装置が爆発!!
という所で眼がさめた。
僕は特に、普段Jに対して殺意は持ってないはずだけど・・・・?

二つ目の夢は、なぜか猛吹雪の中でドライブ中、何かの原因でちょっと外に出てみると、なぜかその場で軽く失神
気がついたら半分凍死しかけていて、あわてて車に戻った。
意識朦朧となりながら運転してたら、目の前にいきなり道路工事中のショベルカーが現れ、それを避けようとしたら、死角に止まっていた車に激しく衝突。
僕自身は怪我もなく平気だったんだけど、衝突した車から降りてきた若い男が「後部座席に乗ってた僕の母親が、衝突のショックで重症だ。どうしてくれる!賠償しろ!」と、僕を激しく罵り始めた。

事故のショックで頭が真っ白になりつつも、「アメリカじゃ、ここでSorryと言っちゃいけないのよね。ああ、でもこれでJに怒られちゃう。ていうか、そのお母さん大丈夫かしら?」などと、ウッスラと思いながら車を降りると、僕の愛車93年型の赤いカローラのボンネットは無残にもグシャグシャに。

そのうち警察がやってきて、僕は事情徴収のため拘置所へ。
警官は僕に「あんた、数万ドルの賠償金を支払うか、でなけりゃ日本へ強制送還だね」と軽く言い放ち、「ああ、どうしよう。どうしよう。」と、頭を抱えている所でまたもや眼が覚めた。

一体何なんなの、この夢?

あたし、もしかして病んでいるのかしら?

2010年6月17日木曜日

嫌な女

23歳の頃、好きになった男を追いかけて再上京。
千葉のソニー木更津工場で期間行員として3ヶ月働いた後、東京の築地近くの小さな時計修理の会社で働いた。
同期は女の子3人と、僕を含めた男2人の5人。
皆とは仲良くしてたけど、その中で一人だけいけすかない女がいた。

横浜出身で大学卒、過去に成田の管制塔や科学研究所で働き、現在の彼氏はHONDAだかNISSANだかの車の設計士というのが自慢で、なんとなく他の人を斜め上から見下しているような目付きが嫌な奴。
あんまり関わりたくなかったんだけど、当時アル中気味の僕と、扱いにくいその女を隔離するかのように別部署にまわされて、いやおう無く一緒に働く羽目に。

実はその前から、同期には僕はゲイだというのはカミングアウトしており、皆快く接してくれたんだけど、その女だけは「えええ~、POM君、男とSEXするの~? 気持ち悪い~!! やだ、あたし鳥肌立ってきちゃった~!キショイ~!」と、僕の目の前で腕をこすった。
その瞬間、「コノウラミ、イツカハラサデオクベキカ・・・・」と、魔太郎のようにつぶやいたのは言うまでもない。

その女、父親はずっと海岸赴任で留守気味。
でも、最近日本に帰ってくるらしい、という事をもらしていたんだけど、その愚痴が凄かった。

「父親なんて居なくてもいいのに。
給料さえ家族にあげればいい存在。
親が子供を大学に行かせるのは当然の事、だって生んだ以上責任があるでしょ。」

それを聞いて、「まぁ~、顔がブスなら性格もブスなのね!」と、心の底から思った。

その会社には約3年勤め、色々あってクビになったんだけど、その後その女とはもちろん音信不通。
それが会社を辞めてから2年後くらいに、当時住んでいたアパートにいきなり彼女の結婚式への招待状のハガキが届いた。

はて?何で僕を招待するわけ?ていうか、ただの人数合わせでしょ、大体あの女、性格悪いから友達少なそうだし。
と思いシカトしてたら、挙式1ヶ月前くらいから頻繁に家の留守電に「私の結婚式、出席できるかできないか、お返事下さい」というメッセージが残るようになった。

さすがにシカトし続けるのはまずいかなぁ、でもそんな奴の為にわざわざ時間を作って、ご祝儀に数万円も包んだりしたくないし・・・、と2丁目のママに相談したら、「そんなの行かなくていい。大体あんた、その女嫌いなんでしょ?それに、今後付き合いたいと思うなら行けばいいけど、そうでなけりゃ行く必要なし。これで縁を切ると思えばいいのよ!」と的確なアドバイスを受けたので、返信用のハガキに「家庭の事情で行けません」と書いて投函。

すると一週間後、やっぱり留守電に「ご家族を大切に」というような、嫌味ったらしいメッセージが残っており、うわ、この女、どこまで性格ブスなんだ、と思った。
という訳で、僕の小さな復讐はコンプリート。

ていうかさぁ、自分が他人に嫌な事した自覚が無い人って最悪じゃね?
それで自分が幸せで頭がお花畑になってるにしても、一緒に祝って欲しいだなんて、ずうずうしいにも程がある。

誰が祝うか、ボケ!!!

でも、なんか勝った気がしないのは何故?

デートクラブ

高校を卒業した後、一年制のコンピュータの専門学校に通い、東京の会社に就職しました。
その会社で3年ほどプログラマーとして働いたのですが、自分の能力以上の事を求める会社にストレスが溜まり、あえなく挫折。
その後3ヶ月ほど、今は存在しない神奈川県の座間にあった日産の工場で契約社員として働いた後、沖縄に戻りました(この仕事、後にも先にも一番過酷で辛い仕事だった)。

契約社員で働いて満期で終わったので、すぐに失業保険は降りたのですが、なにしろその間は暇。
何もしないでブラブラしててもしょうがないと思い、アルバイトを探した。(これ、違法なのでやっちゃいけないですよ!!!)

当時、何故か僕は「もう普通の会社では働けない。これからは、夜の世界で生きるべし」と、訳のわからない妄想を抱いていた。
そこで、求人誌で探した、「クラブのウェイター募集。年齢経験不問」という言葉に飛びついた。
履歴書を持って面接に行くと、あっけなく数分で採用。
場所は、わかる人はわかる、風俗で有名な那覇の波の上地区。

仕事は、出勤してお店の中を掃除。
その後、夕方頃から出勤するお姉ちゃん達にお茶を出す。
お客が来たら、客に酒出す。
カラオケのセッティング。
それだけで、時給1000円という、今までに無い大変おいしい仕事。

働き始めて数日間、何の疑問も持たず仕事していたのですが、そのうちなんかおかしいなぁー、と思うようになった。
どうもこのお店、クラブというか、売春クラブだったみたいです!!!

システムはこう。

お店のマネージャーが那覇空港まで出向き、本土からの男だらけの団体観光客を「かわいい女の子がいるクラブですよー。3千円ポッキリでウイスキー飲み放題+カラオケ歌い放題!しかも、一人のお客さんに必ず一人の女の子がつきます!」などと誘惑。
でも実はその飲み放題のウイスキー、格安のウイスキーにカラメルのようなネットリした人工着色料を混ぜて濃い色にし、それを高級ボトルに入れ替えたシロモノ。

それに騙された団体客が店に着くやいなや、女の子達は「コレはいける!」と思った男にロックオン!
すぐさま隣に座り、くどき始めるのです。
んで、男というのは浅はかなもので、大抵のお客さんはその子とどうにかなろうと思うようです。
んが、そこで落とし穴が。

確かに、酒とカラオケ代でクラブに支払う料金は3千円ですが、その後気に入った女の子と出る際には、店側に5千円を支払わなければいけないという鬼のルールがある事を、その客は知らなかったのでした。
その事で、毎晩のように店の出入り口でもめるお客さんがいましたが、性欲には勝てないようで、ほぼ全員がすんなり支払ってました。

その後、お店を掃除した後の僕の仕事は何も無し。
ただ、女の子達が帰ってくるのを待つだけ。
ターゲットは一日一組なので、それ以上の仕事は無しなので、それまでで一番楽な仕事だった。

ちなみに、そのクラブを一歩出ると、周りはソープやラブホテルだらけ。
お客さんと一緒に出て行った女の子達が何をしてるかは容易に想像できますが、数時間後に帰ってきた女の子が、店長にさらに5千円を渡しているのを見て、「うわっ!じゃ、男はこれに一体いくら払ったんだ?」とびっくりした。
だって、クラブ代に3000円+外出料金5000円+ホテル代+SEX料+αの5000円(女の子が店に払うマージン)でしょ?

僕はちょうどこの頃GAYデビューしたてで、ゲイバーに行ってちょっと気が合う人に会えばすぐにセックスできるってのに、ノンケの男ってこんな事に金を使うなんて馬鹿だなー、と思った。

んで、僕が働いているクラブに勤めている女の子(半分はおばさんでしたけど)達は5~6人なのですが、その数以上の団体のお客さんがくるとなぜかどこからかワラワラと客の人数分の女の子がやってくる。
それが10人だろうと、20人だろうと、ピッタリと。

最初、この女の子達はどこから来るのだろうか?と不思議に思っていたのですが、どうやら彼女達は店に所属しないフリーランスで働いており、街のどこかに詰め所があり、店側に呼ばれるまで待機しており、呼ばれるとあっちの店へ行ったりこっちの店へ行ったりと、獲物を探しながらあちこちフラフラと動きまわるので、UFOと呼ばれていました。

UFOさんは、大抵40~60歳くらいの、もう、これはちょっと・・・・、と思うようなお母さんレベルな人達ばかり。
でも中には、「あんた、なんでこんな仕事してんの?」と聞きたくなるような美人もいた。
でも、さすがに年季が入っているのか、そういうお年を召したUFOさんの方が客掴みは良かった。

ある日、そのクラブで働いていた一番年上のお姉ちゃん(40歳くらいで亭主+子持ち)が、その日のお客さん達があまりにも若かったので、「今日は駄目だな」と思ってボランティアのつもりでかわいい男の子に接していたら、思いがけなくヒット。
数時間後、「なんかねー、あの子あんまりお金なかったのよねー。でも若くてかわいいから、思い切りサービスしちゃった!!!うふふっふふ!!!」と、恥じらいながら店長に5千円を渡していたのを覚えている。
もしかしてあれ、自腹だったかも。

あと一度だけ、お客さんの団体の社長らしき、赤いシャツを着たちょっとイケメンなおぢさんが女の子には眼もくれず僕にだけ話しかけて、帰り際に「これチップね」と、5000円を渡してくれた事があった。
あれは何だったんだろう?

給料も良かったし、女の子達もとても優しかったので職場は気に入っていたのだけれど、その後、お店に警察が来たり、先輩に「ちょっと君の健康保険かしてくれない?」と言われたり、色々きな臭い感じがしたので、3ヶ月ほどでばっくれた。

その経験は、しばらく僕の笑い話になっていたけど、ある日、僕の高校生の時の初恋の人と飲んでいた時、「うちの母親も、自分が小さい時父親の稼ぎだけでは子供を養えなくて、泣く泣く売春してた。という事を自分の成人式の日に話してくれた。」と打ち明けられ、女性というのは強いものだなー、と改めて思った。

そういえば、クラブの女の子達も皆「こんな事、やりたくてやってる訳じゃない」って言ってたっけ。
ほとんどが既婚者で、子供もいたし。

2010年6月12日土曜日

深夜のお客様

アメリカに来る前、東京で某コピーショップにて数年間働いていました。
主に夜勤だったのですが、そのせいか、かなりユニークなお客さんが来た時の事を思い出しました。

1. 旅先でと思われる、若い男が数人写っているスナップ写真を持ってきて、「この子の顔だけ切り取って、コレコレ何センチの大きさにコピーできますでしょうか?」、と言ってきた初老の品のある奥様。
もしやと思い何に使うか訪ねたら、「息子が今度面接試験をするので、その履歴書用に・・・」とおっしゃる。
だから、「履歴書には、このようなスナップ写真ではなく、ちゃんとした服装でそれ用に撮った写真の方がいいかと思います。駅などにはインスタントの撮影機もありますので、それをオススメいたします。」とアドバイスしたら、「あ、あらー、そうなのー? そんな事まったく知らなかったわー」と驚いた様子。
今までこの調子で履歴書書いていたのかしら?と思う同時に、歳とった母親にこんな事頼むだなんて終ってるなコイツ、と思った。

2. 深夜1時ごろにレンタルPCを借りたお客様。
モーレツに数時間何かしら文章を打ち込んでいたと思ったら、突然大声を出して大騒ぎ。
何事かと思ったら、せっかく何時間もかけて作った文書が、PCがクラッシュしたせいで全て駄目になったという。
ちなみにこの頃のWindowsは安定していないので、途中で文書保存するのは鉄則。
なので、思わず「え?途中で保存とかしなかったんですか・・・?」と聞いたら、それがさらに逆鱗に触れたらしく、「とにかく、何とかしてください。技術サポートを呼ぶとかできるでしょ!!!! それができなければ、僕はあなたを殺しますよ!!!!」と、それはもう鬼の形相で。
とはいえ、もう夜中の3時ごろで、サポート呼ぶにもできないし、大体連絡できたとしても電車も動いてないから無理な訳。
結局、それまでのPC使用料は無料にして新たに文書を打ち込んでもらう事にしてもらったけど、後で考えたら自動バックアップ・ファイルなんてのがあったのかも・・・

3. これまでに出会った、最悪のヒステリー・アメリカ女。
既にロゴを印刷してある紙を持ってきて、これに履歴書をPCから直接プリント・アウトしたいという。
でも、うちのプリンターってトナー&ドラム式で、かなりの熱を発するのでそんな紙を通したらそのインクが溶けて一発で汚れてしまい、その後の仕事ができない、一旦印刷した文書を、その紙にコピーするのだったら大丈夫だと思うけど、と言って断った。
そしたら、烈火のごとく怒って、「なんでできないんだ! できないはずがない! あたしは直接コレに印刷したいんだ! あたしの紙を触るな! お前の名前はなんだ!(その後メモに僕の名前をカキカキ)本社に抗議してやる!!」などと、罵詈雑言を浴びせ、なんだこのキ○ガイ女わ・・・ とヘラヘラしてたら、「笑うんじゃない!!!」と叫ばれた。

4. デジタルFAX客。
Fax受信のサービスもしていたお店ですが、ある日意味不明な内容のわからないFaxが届いた。
なんじゃこりゃ?と思っていたら、その後抗議の電話が。
なんでも、このFAXは通常の紙媒体では無く、デジタル化した文書をPCからインターネットで直接送ったものだったそうな。
当時はインターネットはほとんどがアナログ回線で、技術もそんなに発達していない時代。
受け取る機械だって、そんな所から受信するだなんて想定していなかったんだと思うんだけど。
ていうか、そんな大事な文書なら普通に紙媒体でFaxすればよかったのに・・・

5. 傘賠償しろ女。
店の玄関の傘たてに置いてあった自分の高級な傘が無くなった!!賠償しろ!というアメリカ女がいた。
店側、相手がアメリカ人だという事で妙に弱気で、結局賠償。
この会社駄目だな、と思った瞬間。

2010年5月25日火曜日

記憶活用法

ちょっぴり前に、なぜか昔の忘れていた記憶がどんどん甦ってきて、自分でもそら恐ろしいという記事を書きましたが、これってよく考えてみると、書くことが思いつかない時のブログのネタにピッタリなんぢゃ?という事に、今更気付きました。

という訳で、今回は中学2~3年の頃の出来事をば。

いつものように学校に行くと、ほとんどの窓ガラスが割られており、学内が騒然としておりました。
一体何が起きたのか、先生も生徒も理解できず、ボー然。
まるで、尾崎豊のあの歌の歌詞のようですが、あの歌が世に出るより少し前の話です。
あとで聴いた話ですが、どうも中学を卒業して島に残っていた若者が、酔っ払って窓を叩き割ってしまったよう。
噂では、僕のクラスメイトの不良グループも関係していたとか。

その不良グループに誘われて、初めて酒を飲んだのは中学3年の夏。
なぜかクラスのほとんどが集まり、キビ畑のあぜみちで、皆で恐る恐るプラスチックのカップで、氷無しの3合ビンの泡盛をチビチビと回し飲みした。
思えば、これが僕の酒びたり人生の始まり。

いい具合で酔っ払ってきた頃、不良リーダーの両親が、その宴会場にHONDAのカブゴーに二人乗りで乗り込んできたので、皆で蜘蛛の子を散らすようにキビ畑の中に逃げた。
その時、当時交換日記をしていた女の子の手を握ってキビ畑の中を走った訳だが、それが後々の災いの元になろうとわ・・・ (それは気が向いたら、後ほど記述)

その時は誰もお縄にはならなかったものの、結局学校側にバレて、数日後には誰かのタレ込みで、参加した全員が職員室の前でひざまずきをさせれられ、大説教を喰らった。
もちろん、親も呼び出し。
「高校受験前なのに、なんて事を!!!」、と思い切り親に怒られると思ったけど、家に帰っても何故か何も言わなかったし、怒られなかった。

後から考えると、僕は10人兄弟の10番目で、両親はそれまでも色んな問題を抱えている子を育て上げているので、これくらいでは驚かなかったのかも。
それに僕、当時は成績が良くて、小学校の時とか学期末にはいつも優秀賞とか優良賞の賞状貰ってたしー。

でも、それから数ヵ月後、僕の友達がいきなり学校に来なくなった。
隣の大きな島に入院しているらしい。
何事か?と心配していたら、今度はその不良グループのリーダーが突然何も言わずに島の外に転校。
数週間後に分かった事だけど、この2人と他の人達で海辺で酒を飲んでたら口論になり、そのリーダーが石で相手(友達)の頭を殴打!!
友達はかなりの重症で、その晩、隣の大きな島までヘリコプターで運ばれたらしい。

加害者と被害者の親の間でどんな取引があったかわからないけれど、子供心に「そんな事しでかしたら、この島には居られないわな・・・」、と思った。

こんな事書くと、なんて野蛮な所に生まれ育ったんだ、と思う人もいるかもしれませんが、確かに野蛮でした!!!
セミとか野焼きで食ってたし。(セミって、直火で焼くと物凄く香ばしいんですのよ、奥様)

でも、島の男子にしては少しナヨナヨしい僕に、「おかま」とか「女男め」とか言う人は少しいたけれど、決して陰湿ないじめや仲間はずれなどはなかった気がするー。
小中学生の頃有名ないじめっ子も、何故か僕には手を出さなかったしー。

って、もうコレ、約30年前の話じゃないのさっ!!!
なんでアタシ、こんな大昔の事を今更思い出してるのかしら?
ていうか、他にも湯水のごとく続々と記憶が甦ってきてるのですけど?
ここで書いてもいいものかしら?
てか、もう書いてるし。

2010年5月21日金曜日

記憶は戻るものなのか

ついこないだまで、昔の事というか、つい最近の事までほとんど思い出せず、「とうとうアルコールによる若年アルツハイマーにかかったか!?」、と本気で心配していたのですが、なぜか今年に入ってから急に昔の、しかも今まで忘れていた何でもない出来事とかを、突然ふと思い出したりして、今度は逆に「ついにお迎えが来たか!?」と、心配している今日この頃。

その記憶の中には、昔知り合って数ヶ月しか会ってない人とか、子供の頃に一緒に遊んでいた人とか、僕が小さい頃、うちの島に本土や沖縄本島から遊びに来ていて、一度しか会った事の無い人とか、生きている時のおぢいやおばぁ、兄弟姉妹、そして元気な頃の父母の姿が、鮮やかに蘇るんですよ。

そこで、つい最近思い出した昔の出来事の一部をば・・・

・幼稚園の時(確か百合組だった。僕は薔薇組の方がよかったのにぃ)、教室に置いてあった花瓶を誤って落として割ってしまい、バレるのを恐れて外の石垣の後ろに隠れていたたら、いつのまにか違う生徒のせいにされて先生に怒られていたので、そのまましらんぷりしてた。その男子には、いまだに告白していない。

・小学低学年の時、「あぶり出し実験」をするので、家から何か果物を持ってくるように、との宿題に、家が貧乏だったのを知っていた僕は親に言い出せず、当時親戚が送ってくれてたみかん箱からみかんを数個だけ持っていった。他の生徒はリンゴとか、梨とかだったのに。その時、階級の差というのを肌身で感じた。

・小学生2年の時、授業中にトイレに行きたいのを先生に言えず、小便をもらした。5年生の時は、皆で飼っているヤギの草を、担当の友達と3人でリヤカーを引いて刈りに行ったのはいいが、急に下痢が襲い、大慌てで近くにあった防風林に駆け込むも、パンツを下げるのが間に合わず脱糞。泣きながらその辺の葉っぱで尻を吹き、何食わぬ顔で友達の元に戻ったが、「あんた、なんか臭い!さては、ウンコもらしたでしょ!」と言われ、「な、何言ってるんだよぅぅぅぅ~。ち、違う!違うから!」と、か細い声で反論しながら、その場を離れ家に帰った。後で思ったが、あの時パンツを戻さずそのまま脱ぎ捨てておけば、そんなに臭わなく、バレずにすんだんじゃ・・・? でも、二人とも良い人で誰にも言わなかったらしく、後で噂になったりいじめられたりしなかった。

・小学たぶん4~5年生の時だったと思うんだけど、そんな小さな島に、本土(たぶん広島だったと思う)の大学生が写真を撮りに来てた。当時は今のように沖縄の離島などは観光地としてはほぼ知られておらず、沖縄人以外の人を見るのはほとんど無かったので、島の大人とは違う不思議な人に興味津々な僕らは、島のガイド役をかってでた。皆でまとわりつき、あちこち案内して周ったのだけれど、島にはたくさんある洞窟の中を案内した時、「き、君たち大丈夫かね?」と、ビビっていたのが子供心に不思議だったけれど、考えてみたら懐中電灯も持たずに入っていったから、経験が無い人は躊躇するかも。それから数年後、彼が残していった住所に葉書を送ったら、母親からと思われる、「息子は今外国に行っています。ありがとうね。」というような、綺麗で丁寧な返事が来た。その葉書は、僕が島を離れるまで天井から下がった何か(何だったのか覚えていない)に貼り付けて飾っていました。

・島の子供にしては珍しく、僕が泳ぎを覚えたのは小学6年生の時。以来、ほぼ毎日、海に行って桟橋からダイブしたり、素もぐりをしたりと本当に楽しい日々を過ごしていた訳ですが、ある日、桟橋の先っぽにたたずむ、美しい、明らかに島の女性とは違う華奢な感じの、それまで見た事のない白いワンピース姿の若い女の人を発見。興味本位で友達数人と近づくと、本土から来たのよ~、と言うので、「じゃ、何かお姉さんにお土産をあげるよ」と、当時、護岸工事で埋め立て中の砂地まで(桟橋から大体50m)貝殻を取りに一泳ぎ。たくさん貝を拾ったのはいいが、その貝を持ちながら片手で泳ぐのは一苦労で、アップアップしながらやっとの事でお姉さんが待っている桟橋に着いた時、お姉さんは泣いていた。たぶん、すごく心配していたんだろうけど、当時は、何でこのお姉さんが泣いているのかわからなかったので、自分が何か悪い事をしたのかと思い、貝殻を渡して大急ぎでその場を離れた。

・うちはサトウキビ農家だったので、学校から帰るといつも親は畑で不在。でも、いつもジイちゃんやバアちゃんがいたので、全然寂しくなかった。それに、学校が終わったらいつも外で友達と遊んでいたし。でも、いつも少しひもじかった。だから、夕方になると、畑から帰ってくる親父や母親をいつも台所先で待っていた。なぜって、僕が待っていると、親父も母親も「余ったオカズ食べていいよ」、と弁当箱を渡すから。当時は何も考えずにワーイとか言いながら食べていたけれど、今考えると、あんな重労働をしているのに弁当のオカズを残すなんて、もしかして無理をしていたのだろうか?あと、畑でとれたでっかいトマトを、父親が自慢そうに僕に渡して「コレを食え」と言った姿が今でも忘れられない。 トマトは輪切りにして、砂糖をまぶして食べるのがデフォルトだった。
 
その他にも、バアちゃんはよく僕の鼻水を直接口で吸って抜いていたなぁ、とか、ジイちゃんは敷布団の下にエロ本を隠してしたなぁ、とか、中学三年の時に初めて畑のあぜ道で皆で酒飲んだなぁ、だとか、本当に色々な今まで封印していたかのような記憶が、鮮やかに蘇ってきたのです。

本当、不思議~!!!

歳を取るとともに、昔の記憶というのは薄くなっていくものだと思っていましたが、こんなこともあるんですかねぇ・・・?

2010年5月6日木曜日

なんとなくクリスタル

タイトルに、深い意味はありません・・・ 

さて、昨年の夏から続いていた、糖尿病と前立腺炎による下半身の神経痛が、暮れにかけてさらに酷くなり、とっても難儀しており、ブログもままならない状態でした。
医者から処方された薬を飲むも、ほとんど効果なし。
どのような痛みがあったかを、症例が現れた順番に申しますと・・・

1. 昨年6月から急に始まった、頭頂部の頭皮を、針でさすようなピリピリした痛み。最初、頭皮の日焼けかと思ったが、冬を経て、10ヶ月経った今でもたまにある。

2. 右足太股内側の神経を、両側からビュンビュンと引っ張られる感じの痛み。 痛くて夜も眠れない日々が数ヶ月続いた。以前かかった坐骨神経痛とは違う痛み。

3. 前立腺炎によると思われる、下腹部の何とも言えないような痛み。最初、膀胱のあたりにあったが、今はゴールデン・ボールのあたりに移動。

4. 今年に入ってから、左太股の前面に、表現のしようのない痛みが発生。 右足の痛みとはまったく違う別物。なんというか、表面の皮膚がもの凄く敏感に反応して、何かが触ると(手とか指とかジーンズとか、とにかくなんでも)、ピリピリする感じ。例えて言うと、火傷の跡の治りかけを直接触っているような・・・ だから、家ではいつも、下半身は男らしくパンツ一丁。 

5. 両足のふくらはぎと太股に突然起こる、高電圧(電流?)を流したような、ビビビビ~~!っとくる痛み。 あまりにもキョーレツかつ、突然なので、何かの拍子に「ギョッギョ!!」と小さく喘ぐ事しばしば。 傍から見たら、きっと変な人。

6. そうこうしているうちに、今度は左顎に、ご飯や飲み物を取る時に、「酸っぱいものを食べる時に来る、あのサワーな痛さ」が毎回来るようになった。 しかも、キョーレツな痛さ。 おかげで、ご飯を食べるのが恐くなり、数キロ痩せた。 いいんだか悪いんだか。

7. 右左、両太股の痛みのため、両足を引きずるように歩いていたためか、身体のバランスが崩れ、持病の腰痛が悪化。

とまあ、こんな風に満身創痍の感じで、本当に辛くて辛くて、「なんでアタシがこんな目に逢わなきゃいけないの?」と、世の中を呪って怨んでしまいそうでしたが・・・

人間の身体というのは不思議なもので、ある日突然、2010年の4月5日の朝、起きてみたら、その痛み(足のね)がほぼ無くなっていたのです。
本当に自分でも訳がわからず、「なんじゃ、こりゃぁあああ~~~!!!!」って思ったくらい。
とうとう、足の神経がイカレタのかと思い、あわててつねりましたよ。
幸い、感覚あり。

その前の日に何か特別な事したっけか?と回想してみたけど、思い当たるのは普段とは違うマッサージを、念入りにしだけ。

以前は、ただ皮膚の表面をさすっていただけだったけど、その日に限って太股を触るとなんか、皮膚下に小さなブツブツというか、ジェリー状の物があるのに気付いた。
これは実は以前から気付いていたものだけれど、誰にでもあるセルライトのような脂肪的な物かと思い、特に気にしていなかった訳で。
しかし今回、触ってみたら太股だけでなく、足の付け根や腿裏側、ふくらはぎなど、広範囲にわたってあるのを確認。


だから、親指でグリグリと強めに押しながら、さするようにマッサージした訳ですよ。
おもしろいことに、マッサージをすると、そのブツブツがスーっと消えていく。
それが楽しくて、約30分くらい両足をマッサージ。

ただそれだけ。 

それが効いたのか、もしかしたら違う原因があるのかしんまいけど、とにかく両足の痛みはそれ以来、ほぼ無くなりました。
以前は10分も歩くと痛くて痛くてどうしようもなかったのに、今では普通にいくらでも歩けます。

それまで、生まれてから大きな病気をした事もなく、たまに小さな風邪を引くくらいだったのですが、この歳になって、本当に健康ってありがたいなぁって思うようになりました。

んで、何が良かったんだべか?と思ってググッてみたら、こんな素敵なサイトが。
画像↓は、そのサイトからの抜粋。


僕の場合、今でも5, 7, 8 番にその皮膚下のジェリー状のブツブツが確認できるので、毎日念入りにマッサージしています。

2009年12月30日水曜日

最近のこと

お友達数人からクリスマス・カードをいただいているのですが、家族の事情や自身の健康問題など色々あって、まだ気持ちの整理が付かず、返事もしていない有様です。
この場を借りて、お礼を言わせてもらいます。

ありがとうございます。

さて、今日は近くのドラッグストアーWalgreensで、H1N1(豚フル)のワクチンを打ってきました。
人生初の、インフルエンザ・ワクチンです。
価格は$18ポッキリで、てっきり薬剤師とばかり思ってた女性が奥の部屋に案内してくれ、カツンと打ってくれました。
彼女、看護婦の資格も持ってるのかしら?
それとも、資格なくても注射打てるのかしら?

風邪など滅多にひかないので、当初はワクチン接種は考えてもいなかったのですが、この間の日本滞在中に血糖値を測ってもらったら、夏よりもかなり悪い数値が出て、その上体調も悪いので念のため。
糖尿病患者で、H1N1にかかって亡くなる人も多いみたいですし。

同じ日に、自宅で血糖値を測る装置のキットをコンプリート。
機械だけは以前から買っておいたのですが、これ、それ以外にテスト用紙や血液採取用の穴空け器?コントロール・ソリューションと呼ばれる、リトマス試験に使うような液体など、色々必要なのねん・・・

早速、家に帰って試してみたのですが、理科の実験みたいでおもしろ~い。

血液採取も、昔学校でやった指をチクっと刺す痛いアレではなく、ほとんど無痛。
技術の進化に感動。

結果は130mg/dLで、通常より高めだけれど、少しほっとした。
なにしろ、一ヶ月前に沖縄の病院で測ったときは、450mg/dLとか出て超あせったもんね。

2009年12月19日土曜日

日本に帰ってました

理由あって、日本に3週間ほど帰ってました。
詳しい事をここで書いていいものかどうか、また、書けるかどうかわからないので、気持ちが落ち着いたらボチボチいこうかなー、と思っています。

それにしても、今回の旅はキツかった。

今通っているカレッジはクォーター制なので、三期制の学校より早めに終わるのですが、日本行きを決めたのはFallクォーターが終わる一週間前。
あわてて先生方に事情を説明して、特別に前倒しで期末テストをしてもらったり、課題の提出を早めに終わらせたりと、大変難儀しました。

でも、もっと大変だったのは飛行機での移動。
一刻も早く沖縄に着きたかったので、今回は本土での滞在は無し。
アメリカ国内で2回飛行機に乗り、成田に到着。
その間、搭乗チケットと大事なI-94を紛失してしまうというハプニングもあったりして、かなりドキドキの旅でした。
日本到着後は、その日のうちに成田から羽田にリムジンバスで移動し、沖縄那覇まで飛び。
翌日には、さらに那覇から宮古島までと、一体何回飛行機乗らなきゃならんねん!しかも、片道で!と、離島に生まれ育ったハンデを身にしみた訳ですが、その時点でもう身体はドロドロ。

宮古島では2週間以上滞在したのですが、その宮古島も僕ら家族の故郷ではないので、滞在途中、隣にある生まれ島まで2日程度、親父の顔を見に船で往復したりもしました。

帰りは帰りで、今度は真逆に宮古→那覇→羽田→成田→シアトル→ミネアポリス→デイトンと、5回の飛行+移動。
しかも、T-シャツ一枚の沖縄から氷点下5℃のデイトンに着いたものだから、寒い寒い!
うっかり素足にサンダルでコンビニに買い物に行ったら、途中で凍傷になりかけた。
また、疲れが溜まっていたのか、帰ってから3日間は、ずーっと苔のように一日15時間くらい眠りっぱなしでした。

 なんかもう、昨年の暮れから今年にかけては悪いことばかりが立て続けに起きているので、誰かに呪われているのではなかろうか?と心配になっています。

2009年11月9日月曜日

国籍不明・・・らしい

実はアタクシ、日本国内だと誰が見ても一発で「アンタ、沖縄出身でしょ!?」と言われるくらい、極太眉毛の濃い顔なのですが、そのためかアメリカではあまり日本人に見られた事がありません。
たまに国籍を聞かれ、日本から来ましたと言うと、「へ?あんた日本人なの?嘘、ありえない。だって君の顔・・・」と驚かれたり、中南米系のおっさんに、カジュアルに「@&^!@#%&」と思い切りスペイン語で話しかけられたので、「すんません、スペイン語喋れないんです・・・」と、片言のスペイン語でいうと、「あ、そう・・・残念だねぇ・・・」と、淋しそうな顔をされたりとか、ザラです。(たぶん、中南米からの2世か3世だと思ったかも)

今日、家の近くのコンビニにビールを買いに行ったら、支払いの際にレジのアラブ系のおっさんが何かアラビア語で話しかけてきたのでキョトンとしてたら、「あれ?てっきり君、アラビア語喋れると思ったんだけど・・・」と言われました。
以前フィラデルフィアの学校に通っていた頃、トルコからのクラスメートがたくさん居て、中には「僕の友達に、君にソックリの顔の奴がいる」と言われ、まさか、そんなはずは無いだろうと思った事があったのですが、コレの事かと合点がいきました。

まさか、中近東系にまで間違われるとは思わなんだ。

最近では年齢まで不詳になってきたらしく、一ヶ月くらい前に近所の美術館の中庭で行われたビヤ・フェストの入り口で、ビールを買うためのリストバンドをもらう時、年齢確認の際に免許証を係りのおばさんに渡したら、「ええええ~~!!アンタ、1968年生まれなの~!!?てことは・・・、今41歳!?ありえない!ありえないわー!」と大袈裟に驚かれ、一瞬気分が良くなった。

昔は老け顔で、20歳くらいの時には、すでに30歳くらいに見えてたんだけどねー・・・
ていうか、若く見られて喜ぶってのは、歳をとったって事なのかしら?

2009年10月10日土曜日

SHAKE WEIGHT




こ、これ欲しいんすけど・・・

でも、何かを連想してしまうので、ワークアウトしてる所は人に見せられないような・・・?

2009年9月30日水曜日

痛む所

この数ヶ月ずーっと続いていた、前立腺炎による下腹部の違和感と痛みが、4日くらい前から突然無くなった。
前立腺炎は定期的なマッサージが必要なんだけれど、そのマッサージというのは指を肛○の中に入れてグリグリとするヤツだそうで。
僕が泌尿器科で体験した、あの物凄く痛いものなんですけど。

通常は病院でお医者さんや看護婦さんにしてもらうか、中には奥さんにしてもらう患者さんもいるとか。
自分でやるのはちょっと気がとがめたので、今までほっておいたのですが、あまりにもジクジクとするので、外側からでも効果ないのかしら?と思い、数日間眠る前にベッドの中でモミモミしたり、人差し指や親指でツボのように玉袋のあたりを刺激してみた。

効果があったのかどうか知らないけれど、それまでの下腹部の痛みと違和感が嘘のように無くなった。

んが、それと同時に今度は右足の膝内側から内腿にかけて、何か引っ張られるような痛みが発生。
とても痛いという訳では無いけれど、一日中続くので夜もあまり眠られない。
この痛み、以前経験した事あるなー?と思ったら、昔酷い腰痛を患った時にあった、坐骨神経痛に似ている。
でも今回、腰痛はほとんど無いんだけどなー?

痛みって移動するのかしら?